社長・副社長インタビュー

山代 裕彦

やましろ やすひこ

代表取締役社長

春風を起こす。

その男は、まるで春のように暖かで緻密な人。
必死さを必至に変え、苦境に息吹を与える風。
挫折と失敗も多かったと、微笑する。

Profile

1955年7月18日生まれ・京都大学法学部卒。埋め立て地に関連する事業の現場からキャリアをスタートし、バブル期前後には関西エリアで販売用不動産の用地取得などを経験。
その後、さまざまな事業を手がけ、2015年4月に「三井不動産リアルティ」の社長に就任する。若い頃から尺八を演奏するなど邦楽に通じ、現在も小唄を嗜む伝統芸能派。

“謎の男性”から受け取った大切な言葉。

「実家は大阪で飲食店を経営していて、食事時は店が忙しいから、食卓を囲んで家族団らん、といった記憶があまりないんですよね」。両親の仕事は多忙で、店の移転も多かったという山代。しかし、友だちは多く、大事にもしていた。「引越が多かったけど、友だちが変わるのが嫌で、学区が変わっても無理を聞いてもらって同じ学校に通い続けましたね。だから、幼い頃からひとりで電車に乗って、どこへでも出かけていました」。
子どもながらに広い行動範囲を持って遊んでいた山代少年に、ミステリアスな出会いが訪れる。「中学生の頃だったかな。家の近所の靭公園(うつぼこうえん・大阪市西区靱本町)で、子どもたちにサッカーを教えてくれる30代くらいの男性がいたんです。ユニホームやボールも全て自費で配っていて、サッカーだけじゃなく、英語や漢文なんかも教えてくれた。僕なんてはじめての英和辞典を一緒に買いに行ってもらったことがある。ただ、この人の正体は不明なんですけどね…」。(実はご両親は知っていたようだ)
山代は、この謎に包まれた人物から大切な言葉をもらった。「“サボっていて勉強ができないヤツをバカにするのはいい。それは自分のせいだからだ。でも、自分ではどうすることもできない、生まれつきのコンプレックスをバカにするのはいかん”と、よく言われました」。後に山代は、社会に出た後、この言葉の意味を再び噛みしめることになる。

多くの挫折の中で過ごした高校時代。

その後、山代は不遇の時代を迎えた。「第1志望だった公立高校の受験に失敗して相当落ち込んだ時期がありました。よりによってその高校が自宅のすぐ近くで。そこの制服が見たくないから、わざわざ一駅先で降りて歩いて帰ったりしていました」。
「“これじゃあいかん!”と思って必死に勉強したんです。そうしたら、あっさり1番になってしまって」。ここから山代の快進撃がはじまる…というのがドラマのセオリーだが、現実ではそうはならなかった。「その後、勉強に対する熱は意外とすぐに冷めてしまってね・・・」。その結果、現役時代の大学入試に失敗・・・。
とはいえ、転んでもただでは起きない。
1年間の浪人生活を経て、京都大学法学部に入学した。

“法学部”に入学するも、“邦楽”に没頭する日々。

大学時代の様子を聞いてみると、「大学時代は尺八を吹くことに没頭していましたね」。という、意外すぎる答えが返ってきた。聞けば、入学と同時に部活の勧誘に捕まって、そのまま入部してしまったのだという。「邦楽って、ド・レ・ミの音階じゃない世界だから、本当に演奏する人の性格が出るんですよ」。
山代は尺八にのめり込み、3回生で部長に就任。両親の反対を押し切ってひとり暮らしをはじめ、大学に行ってもほぼ一日中、尺八を吹いていた時もあった。そして、伝統ある「琴古流(きんこりゅう)」の準師範にまでなった。「朝、部室に行って稽古。夕方、他の部員が集まってきたらさらに稽古。それが終わったら後輩に多少の物を買ってこさせて宴会をして、下宿の近所でラーメンを食べて帰る。その繰り返し。学費以外の援助はなかったから食事はそれだけ。入学した頃は80kgあった体重が60kgを切るほど痩せましたね」と、笑う山代。まさに、“法学部”にして、“邦楽部”と言うべき学生時代を過ごしていた。そんな、ひとつのことに徹底的に没頭した経験が、後年、彼のパーソナリティーや仕事に対する姿勢を形づくる礎になったのかも知れない。

働くなら“リアルに関わりたい”と思った。

寝ても覚めても尺八に明け暮れた山代。そんな彼の就職活動に迫ってみた。「僕が就活生だったのは1979年。今と全然違って、募集の解禁日が4回生の10月1日。そこから1週間くらいでほとんど決まってしまうような状況でしたね」と、当時を語った。「とにかくその短期間でどれだけ企業を見て回れるか?みたいなところがあって、金融、製鉄、不動産…と、いろいろな業界を見てまわりました」。そんな中で山代はなぜ、不動産の世界を選んだのだろうか。
「僕は文科系だったから、メーカーに行っても、商品づくりや商売には直接携われない。単に“会社がつくったものを黙々と売ってこい”という仕事はもの足らなかったんです。でも、不動産の世界は違う。土地や建物を売りたい人、買いたい人を探してきてマッチングさせる。つまり、“自分の手でリアルに仕事と関われる”って思ったんですよね」。それが、山代の抱く志だった。

“叱り方”を示してくれた上司の存在 。

さまざまな経験とキャリアを重ね、2015年4月、社長に就任した山代。そんな山代にも当然だが新人時代はあった。その頃に体験した、印象的だったエピソードについて聞いてみた。「20代だったある日、社内の引越があって、僕が課の代表で説明を受けに行くことになった。でも、ちょっとしたミスをしてしまったんですよ。そうしたら、その時の上司から人前なのに手加減なく派手に叱りつけられちゃって。あまりのことにミスをした僕の方がむくれて黙り込む感じになってしまった」。一触即発の緊迫した状況…と、思いきや、その空気はあっさりと破られた。
「その人、数時間後にはカラッとした表情で“ヤマちゃん、メシ行こうよ”って近づいてきてくれたんです。そうしたらむくれている自分の方が拍子抜けしてしまった。“叱る”ってすごく難しいことで、“叱る側”も、一生懸命叱るほどわだかまっていくし、“叱られる側”も頑なになってしまう。だから、叱るべき“ミス”は全力で叱って、それ以上は本人を責めない。そのことの大切さを教えられましたね」。山代は今でもこの人物との交流が続いていることを嬉しそうに教えてくれた。「努力が足らないことはどんなに強く叱ってもいい。でも、本人を否定してはいけない」。それは、少年時代に出会った靱公園の“謎の男性”から受け取った言葉にも通じる、山代の“軸”となる経験だった。

“必死”になれば、目標は“必至”のものとなる。

そんな山代が、今の若い世代に感じていることがあるという。「良い意味でもっと“会社人間”であっていいと思っています。昔と違って、プライベートで楽しめることが増えた。でも、その分、そこが“逃げ場”になってしまう傾向があるかな、と。もちろん、趣味を持つのもいいし、酒を飲むのもいいし、スポーツを楽しむのもいい。でも、その源泉を支えるものって、会社の仕事じゃないですか。そこを突き詰めれば、仕事以外のことも“逃げ場”にはならないし、結果として両方をもっと充実させようと思うはずだから」。
最後に、就職活動に臨む学生たちへのメッセージを語ってもらった。「僕が社員に向けてよく言っているのが、“必死と必至”という言葉。読んで字の如く、“何事も死ぬ気で取り組めば、必ず目標に至ることができる”という意味を込めています。つまり、一生懸命やる。これに尽きるのかな。一生懸命にやれば、きっと、成功体験に至れるはずだから」。穏やかながらも熱を帯びた口調でさらに続けた。「今の学生のみなさんは、本当によく企業を研究している。でも、どうせ研究するなら、“企業に入った後、自分がどんな仕事をするのか?したいのか?”というところまで踏み込んだ上で、当社を選んでくれたら嬉しいですね」。そう結んだ山代の表情からは、まだ見ぬ新人たちへの大きな期待がはっきりと感じ取れた。

代表取締役副社長 大下 克己
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